孤読の時間

最近は自転車で移動出来ない範囲を動くことも多く、
割と電車を利用することが増えた。

考えてみれば、
故郷の北九州に住んでいた時は
車の免許を取ってからは基本的に移動は車だったから、
東京に来てから学生時代並に電車を利用することになった。

いや、正確には初めて東京に来た時は
仕事場が家から近いところだったため、
それこそ来た当初も電車を利用することもなく、
そういった意味ではよく使うようになったのはここ1年くらいだろうか。

やはり電車ではなく、
徒歩や自転車や車などで見える
それぞれの経路で変わる景色が好きなんですが、
電車の中に流れる独特のフィルムで撮ったような色合いも好き。

音楽人間のように見えて、
僕は普段ほとんどと言っていいほど
イヤホンを耳にさして移動することが無い。

移動中はどちらかというと、それぞれの景色から聞こえてくる音に
ただひたすら耳を傾けている。

街に流れる車の音、
風が導き出す木々や草花の音色、
華やぐネオン街に響く人々の欲望の羽音、
そしてただ静かに流れる雲の音。

僕はそのどれもが大好きで、
繰り返しリピートされる同じ音を切り取った音楽には
決して到底近づくことが出来ない
終わりの無い交響曲が本当に魅了され続けている。

いや、話を戻そう。

電車に揺られていて、外に流れる景色を見ていると気づかないが、
ふと車内に目を向けてみると携帯を見つめている人で溢れかえっている。

別にそれがいいだの悪いだのという話ではなく、
本当に増えたなという話。

昔は読書をする人が多かったのだろうか。

いや、それもそうでは無い気がする。

電車の中を静かに見つめると、
遠くからみると、その一両一両がパッケージされた
ひとかたまりの風景のようだが、
実際にはそれぞれの小さな景色の集まりだ。

2人以上の同乗者で乗り込んだ者たちは
声の大小や、時間の長短はあるものの、
基本的に何かの会話をしているものが多い。
いや、それどころか会話を一切しない場合でも
それぞれがただ静かにその時間を共有している。

ところが、独りで乗る者たちは全く違う。
ほとんどと言っていいほど
みんな何かを見つめている。

携帯電話、タブレット型端末、小説、新聞…
そう何かを読み続けている。
ゲームをするものも多いかな。
しかし何にせよ、何かをずーっと見つめているのだ。

僕たちは孤独を嫌う。
孤独が好きだという人間さえも孤独を恐れる。
どうして?といって、誰しもが納得させることの出来る答えを用意出来るものがいれば、
きっとその人はノーベル平和賞あたりを受賞してもいいと思う。
それほど、なぜに孤独が怖いのか分からない。

孤独が怖いと人は何かにすがる。

歌う、口ずさむ、踊る、食べる。
そのどれもが許されない場合、
つまり、ビークワイエットの時は
ただ目を何かに向ける。

怖いんだ、僕たちは今いるこの瞬間に
自分だけが時間に取り残されそうで怖いんだ。

今こうしている瞬間も時間は流れている。
だから、置いていかれないように必至なんだ。

でも、ふと思った。

都会だからなのかな?

答えは無いんだけど、
どちらにしても嫌いじゃない。
何かに急かされて生きていくというイメージは
なんだかとっても良くないが、
僕は嫌いじゃない。

こんな僕なんだ、
人に急かされるのは大嫌いだが、
時間に…いや、自分自身に急かされないと
きっとただ瞳を閉じて静かに流れる交響曲を聴き続けてしまう。

また明日も時間が流れる。
今も。

孤読の時間は続いていく。